
【台湾史を巡る】台湾史上最大の抗日事件の舞台・霧社でセデックの英雄を想う
こんにちは。もちだもじです。
皆さんは「霧社事件」という事件をご存知でしょうか。
霧社事件は日本統治下の 1930 年の台湾・霧社(現在の南投県仁愛郷)で発生した、台湾原住民による台湾史上最大規模の抗日武装蜂起です。
台湾との親密さが話題に取り上げられやすい日本において、「台湾の抗日武装蜂起」について知る機会はほとんどないかもしれません。しかしその実、台湾人による抗日武装蜂起は幾度となく発生していました。
その中でも「霧社事件」はその特殊性と規模の大きさから、当時の日本全土に衝撃を与え、その後の日本の台湾統治に非常に大きな影響を及ぼした事件で、近年では映画「海角七号」の魏徳聖監督が「セデック・バレ」という映画の題材として取り上げたことにより広く認知されています。
その現場になった場所を訪れて、当時の雰囲気や事件の当事者が見た風景、そこで今も生きる人々の空気を感じたい。僕は長年そんなふうに考えていました。
今回台湾に行き、その念願をやっと叶えることができましたので、本稿では台湾史上最大規模の抗日武装蜂起「霧社事件」の舞台となった霧社の見どころや訪れた感想、霧社への行き方についてお伝えします。
(とにかく霧社への行き方を知りたいという方は下記をスキップしてください)
そもそも霧社事件って?
霧社事件は日本統治下の 1930 年、霧社で日本人の統治を受けていた原住民セデック族(賽德克族)の戦士たちが日本人を相手に起こした集団蜂起事件です。
日本は 1895 年に下関条約で台湾を支配下に置くと、実際の統治を開始すべく台湾に軍を派遣し、反抗する台湾住民を武力で屈服させていきました。
主に台湾島内陸の高山に住む台湾原住民もその例外ではなく、日本は 1915 年までに原住民を含めたほとんどの台湾住民を従えることに成功しました。日本統治時期の台湾住民による抗日武装蜂起は大部分が 1915 年までに発生したもので、それ以降は台湾人の生活基盤を向上させることで日本人と同化させる「内地延長主義」が採られたため、台湾人が不満を抱きにくくなり、日本に対する反抗はほとんど発生しなくなったのです。
しかし「霧社事件」は、そんな日本の統治が最も安定していたといわれる 1930 年に発生しました。
現在の南投県の山奥・霧社に住むセデック族の一部族であるマヘボ社は、長らく日本人警察により過酷な労働を強いられていました。また原住民に対する差別も強く、部族の娘が日本人警察の現地妻にされるなど、原住民たちの日本人に対する不満が積もっていました。
事件の発端となったのは、原住民の結婚式での一幕でした。
マヘボ社の頭目、莫那・魯道(モーナ・ルダオ)の息子であるタダオ・モーナは宴会の際、通りがかった日本人警察に酒を勧めましたが、日本人警察はそれを乱暴に振り払い、その行為を侮辱と捉えたタダオは仲間とともに日本人警察に暴行を加えました。
支配者である日本人に対する暴力は、当然ながら制裁の対象となります。
報復を恐れたマヘボ社の原住民たちは、頭目であるモーナ・ルダオを筆頭に、同じく日本人に恨みを募らせていた他の 5 部族と共謀して蜂起を決意しました。
事件が起こったのは多くの日本人が集まる霧社公学校の運動会の日。
まず村の駐在所を襲撃した原住民たちは、武器を手に公学校に乱入、子供から大人まで、着物を着ている日本人を老若男女問わずに殺害しました。これにより 132 名の日本人と、和服を着ていた台湾人数名が殺害されたといいます。
蜂起の連絡を受けた日本軍はすぐに現場に急行し鎮圧にあたりました。
初めは山中の地形を知り尽くした原住民のゲリラ攻撃に翻弄されたものの、機関銃や大砲などの近代兵器を駆使した日本軍は優勢を保ち、蜂起した原住民を最小限の犠牲で鎮圧します。
またその過程で別部族の原住民を利用して蜂起部族の戦力を削る作戦も実施されており、多くの原住民が戦死したほか、直接戦闘に参加していないマヘボ社の女性や子供は、敗北を悟ると処刑を逃れるために集団で自殺をしました。
この戦いにより、原住民だけでも 700 名以上が死亡し、一連の蜂起の後、投降した原住民を別の部族の原住民が殺害する事件(第二次霧社事件)も発生したことで、さらに多数の犠牲者が出る事態となりました。
また日本の統治下で禁止されていた、原住民特有の首狩り(出草)が行われたことにより、遺体から首が切り取られるなど、現場は死者数以上に凄惨な状況だったと言われています。
この事件は安定した台湾統治に安心しきっていた日本に衝撃を与え、原住民政策や、ひいては台湾統治政策を根本から見直す結果となりました。また合わせて蜂起した原住民の強制移住などがあった一方で、原住民の生活改善も積極的に行なわれたといいます。
有名なところでは八田與一の治水など、様々な事例を引き合いに出して日本の台湾統治は成功だったと言われることは多く、それは総じて言えば間違いない評価だと僕も思います。
一方で日本による台湾統治が統治である以上、決して誰もが手放しに歓迎したわけではなく、必ず暗い部分を併せ持つものであったということを、霧社という場所は思い出させてくれるのだと思います。
いざ霧社へ。霧社へのアクセス
たいぶ前置きが長くなってしまいましたが、そんな日本統治時期の痛ましい事件の起きた霧社へ出発です。
前述のとおり、霧社は台湾の田舎・南投県の山奥にあります。
台北からは、台中、埔里(プーリー)を経由してバスで向かうのが一番の方法です。
この日は夕方に台中で行きたい場所があったため、かなり早い時間に台北を出ました。
台中までは高鉄(新幹線)で向かいます。
台北から台中まで、自由席は 675 元、指定席は 700 元です。台湾の一般的な交通手段から考えるとかなりの高額ですが、速さと快適さを考えればまったく惜しくはありません。
台北からは 50 分弱で台中に到着しました。
台中駅で高鉄を降り、改札を抜けて地下へ向かうと、南投県に向かう停留所があります。
高鉄の台中駅には様々なバス会社の切符売り場がありますが、霧社に向かうためのバスは南投客運で購入できます。カウンターで埔里までと伝えて 140 元を支払うと、すぐ近くのバス停を案内されます。
バスは数分に一度やってきますが、すべてが埔里行きとは限りません。
案内のスタッフに切符を見せて、目的のバスが来たら教えてもらうようにしましょう。
バスに乗って約一時間、埔里に到着しました。
小さなターミナルながら、近隣各所へのバスが停まるハブになっているようで、待合スペースには多くの乗客が待機していました。
再度、南投客運のカウンターでチケットを購入します。
やはり様々な行先のバスが停まるので、どのバスに乗ったらいいか一見わかりにくいのですが、停留所に取り付けられている行先を示すパネルが、目的のバスが到着した時に光るようになっているので、それを目印に乗車すれば間違うことはありません。
山道をバスに揺られて約 40 分後、ついに霧社へ到着しました。
霧社の街並みを散策
バスを降りたのは、町の大通り。周囲には商店や警察署、ホテル、コンビニなど、がぽつりと立ち並んでいます。どの建物も比較的古く、当然ですが華やかな印象は全くありません。
この日は台湾の地方選挙の直前だったため、出馬した候補者の支援者たちが町中で声を張り上げて声援を送っていました。
老若男女問わず、政治に対して真っ直ぐに意欲的に関わろうとするのは、日本ではあまり見られない光景だと思います。
▼ 霧社の大通り。選挙の宣伝ポスターが大きく張られています。
▼ 集まっている赤い服の集団が、候補者の支援者たちです。
町中を歩いて回りましたが、霧社はあまり大きな町ではないようです。
ほとんどの商業施設は大通りに集中していて、住居があるのも大通りの一帯のみ。周囲は谷に囲まれていて、道路が一本走っているほかは、空き地なども目立ちました。
中心地を抜けて霧社の奥のほうへ向かっていくと、農協の前の開けた土地にテントが建てられている場所が。
近づいて見てみると、地域住民が作った野菜を自分で売っているようでした。
フリーマーケットのような雰囲気で、店員さんは原住民のようです。
霧社の町中で見かける人を見ていると、目算ですが半分程度は原住民の方のように思います。
歩き回ったらお腹が空いてきました。
一度中心地に戻って、大通り沿いの食堂に入ります。原住民の女将さんに促されて席に着き、麺線を注文しました。
大きなお椀に盛られた麺線は、濃いめの醤油味。日本人にも馴染みのある濃厚なスープに、歯ごたえのあるホルモンが入った麺線は、台北で食べるものとはまた少し違うように思いました。
霧社事件の記録を探して
さて、一通り町中を見回ったところで、今回の目的である霧社事件の痕跡を探しに向かいます。
大通りから斜面を下っていくと、自然史教育館を示す看板がありました。
職業学校や小学校を横目に見ながら、町のはずれの教育館へ足を向けます。
▼ 途中で見つけた地方選の広報横断幕。名前から原住民出身であることが分かります。
自然史教育館に到着しました。
記名をして中に入っていきます。入館料はとられませんでした。
中に入っていくと、古い木臼やお面、人間をかたどった古代の偶像など、一見台湾とは関係のなさそうなエスニックな展示が広がっています。
しかもよく見ると、それらはすべて台湾ではなく、パラオなど太平洋の島々で発見されたものばかりでした。恐らく、この地に住む原住民のルーツとして、太平洋の島嶼に暮らした古代の人々の生活の一端を展示しているのでしょう。
(「自然」史教育館という名称には若干の違和感を覚えましたが……笑)
地下への階段を見つけました。
階段の壁には、映画「セデック・バレ」で見たような刺青を入れたセデック族を描いた絵画が飾られています。
地下へ降りると、それまでの民族的な雰囲気とは一転し、霧社とセデック族の歴史が壁一面に掲げられていました。
その中でもやはり、霧社事件に関わる部分が多くを占めています。
▼ セデック族の文化を示す展示。Gaya と呼ばれる戒律を忠実に守って暮らしていました。
さらに奥に進むと、台湾に暮らす 16 の原住民の詳細な説明や、彼らが使う狩猟の道具、衣服、古代から伝わる神話などが展示されています。
特に神話は、各民族の祖先やルーツに関わるものも多く、僕もすべては理解できませんでしたが、それぞれの民族の誇りを体感するにはとても良い資料でした。
(基本的にはすべて中国語での展示となっています)
▼ 各民族の神話をまとめたコーナー
▼ 刀剣類には、やはり心を揺さぶるものがあります
自然史教育館を出て、恐らく霧社で一番有名な地へ。
大通りに出て、埔里の方面に 5 分ほど歩いたところに、その場所はあります。
霧社山胞抗日起義紀念碑です。
神社の鳥居のような白い門に、どこか血を連想させる赤黒い文字。
一応は公園として扱われているようですが、木々に隠れて薄暗く、人気のない静かな場所です。
そんな厳かな空間に独り、彼の像は建てられています。
霧社事件の首謀者とされ、強大な日本軍に立ち向かった原住民の英雄、莫那・魯道(モーナ・ルダオ)です。
霧社事件で日本に敗れた彼は、山の中で姿を消しました。
後日遺体となって発見された彼の遺骨は、標本として台北帝国大学(現在の台湾大学)で保管をされましたが、その後霧社に返還され、公園内にある莫那魯道烈士之墓に眠っています。
元来、莫那・魯道は日本に反抗することに積極的ではなかったと言われます。
彼は事件以前に一度、日本に招かれたことがあり、そこで日本の圧倒的な技術力と軍事力を目の当たりにしています。そんな彼にしてみれば、日本に反抗することはそのまま部族全体を滅ぼすこととなるのだと分かっていたのでしょう。
しかし彼も、セデック族の誇りや先祖からの霧社の土地、受け継いできた戒律である Gaya、そしてマヘボ社の一員を守るために、日本と戦わざるを得なかったのです。
銅像となった彼は、誰もいない静かな森の中で独り、真っ直ぐに前を見つめています。
▼ 霧社山胞抗日起義紀念碑
▼ 抗日原住民をかたどった銅像
近隣の史跡を巡る
霧社山胞抗日起義紀念碑から、さらに埔里の方向に歩いていくと、別のスポットに出会います。
こちらは萬大発電所第二事務所。霧社事件の最初の悲劇の地となった、原住民の襲撃を受けた公学校のあった場所です。
現在は立ち入ることはできませんが、この山と谷に囲まれた土地で突然襲撃に遭い、多くの日本人が犠牲になった場所だと思うと、立ち止って中を覗き込まずにはいられません。
そしてさらに歩いていくと、道路から坂道を数メートル上った荒れ地の中に、コンクリートの基礎だけが残された遺跡のようなものが見えます。
これは霧社事件で犠牲となった人々の墓。
セデック族との戦いの中で殉職した日本軍や日本人警察を葬った場所です。
この場所には本来、殉職者を祀るに相応しい立派な塔が建てられていたそうですが、第二次大戦後の 1950 年代に塔の部分は破壊され、コンクリートの基礎部分だけが残骸として辛うじて残されたとのことです。
現在も丁寧な手入れがされている形跡はなく、雑草の生い茂る空き地となっています。
帰りのバスの待ち時間、ふと遠くに広がる山々を眺めてみました。
霧社の名の如く、昼間でもうっすらと霧がかっている山の中で数十年前、セデックの人々が寝起きし、狩りをし、踊り、そして暮らしてきたのだと思うと、少し不思議な感覚に陥ります。
どれだけ歴史を知っても、どれだけ霧社を歩いても、強大な日本に立ち向かった彼らの覚悟を、僕が心の底から理解することは到底できないのでしょう。
しかし、僕が眺めている深緑色の山々は、かつてセデックの人々がその目で見た景色と同じものかもしれない。そう思うと、木々の騒めきの中で微かに、セデックの戦士たちの雄叫びが聴こえたような気がしました。
まとめ
ということで今回は、霧社について紹介をさせていただきました。
数十年前の出来事とはいえ、台湾を統治した日本にとっての「負の場所」である霧社を訪れるのは、旅の仕方としては王道ではないのかもしれません。
(霧社で出会った人々も、なぜここに日本人が、と思ったかもしれません)
しかし、日本の台湾統治には良いところと悪いところ、両面があったのは事実です。
その両面を知ってこそ、真に日本と台湾の関係を知ることができると思いますし、むしろ悪いところを知ることで、それを乗り越えて築いた日台関係を実感することができるように思います。
そして何より、かつて日本全土に衝撃を与えた大事件の舞台の空気を感じることができるのは、非常に大きな意味があると思います。
観光客向けに整備された場所ではないので、日本語の解説などが設置されていないのが残念ですが、台湾史上でも非常に重要な場所ですので、これを機に台湾の歴史にも触れていただき、機会があればぜひ霧社に訪れてみてはいかがでしょうか。